7.斎宮〜宮川へ |
三重県多気郡明和町→明星水→そうめん坂→へんばや→札の辻(8km:3時間) |
■ 斎宮 ■(2001年5月4日 am10:00〜)晴 この駅の向うに斎王宮の跡があるのだが、江戸庶民は無頓着にも駅の待合所で御握りを食べ、トイレ休憩を行っていた。 遺跡が発見されたのは最近の事らしいので江戸時代の旅人も素通りだったのだ。 (斎宮とは斎王の宮殿と斎宮寮という 役所のあったところ。 斎王とは天皇が即位するたびに伊勢神宮に天皇の名代として奉仕する未婚の皇女のことで 平安から南北朝時代の660年間続き、その間、記録には60人余りの斎王の名が残されています。 都から500人の行列と共に140kの道を歩き斎宮に派遣された斎王は、ここを拠点として、伊勢神宮奉祀に年3回 通ったとされています) |
■ 竹神社・六地蔵石憧 ■約500m(10:15) 街道に戻ってすぐの竹神社では毎年6月に斎王行列を復元した「斎王まつり」が行われている。 その先、六地蔵石憧の看板に誘われて 空き地に入った。(六地蔵石憧=室町時代の作で笛川地蔵堂にあった物、 六角形の火袋部分に各地蔵が刻まれている) さっきから気になっているのだが殆どの家の玄関に注連縄(しめなわ)が掛かっている。 |
■ 明星水(井戸) ■約1〜2km(10:40) どーうしても気になるので聞いてみた。 この地方の風習で正月飾りを一年中玄関に掛けているという話だった。 不思議な注連縄はこの後、伊勢神宮まで続いていた。 歩いてすぐの左小道に病気で亡くなった斎王・隆子女王墓の案内道標がある。 川を越え上野地区に入ると安養寺の「明星水」案内板が目を引く。 (江戸時代、参宮客に湯茶の接待をしたので人気を呼び、門前が賑わった。明星茶屋という) |
■ そうめん坂 ■約500m(10:50) 街道の先はなだらかに下り、下った場所にそうめん坂の標柱が建っている。 (昔、この辺りにそうめん屋があった事から名付けられ、 他にも食べ物、ぞうり、笠等を売る店があった) ここから道は緩やかな上りとなって続く、右手にあった転輪寺を見学。 車を避けながら明和町の街道を歩き視界が広がる小川の手前の郵便局で一休み。 紫煙の先にガソリンスタンドが見えている。 |
■ 新茶屋 ■約2km(11:30) 再び緩やかに坂を上ると「新茶屋」と呼ばれる地域に入る。 (先ほどの安養寺辺りの明星茶屋が本場だが、参宮客が 増えると、この辺りにも新しく茶屋が出来始め、新茶屋と呼ぶようになった) やがて参宮客の信仰を集める弘法大師堂を見て小俣町に入った。 しばらく歩くと「徳浄上人千日祈願の塔」 (村が大飢饉にみまわれた時、徳浄上人が伊勢神宮に千日の間、素足で日参し 村民を救った) |
■ へんばや ■約2km(12:00) 道は右カーブして713号線に突き当たり、右折して、しばらく進むと「へんばや」に着く。 (へんば屋=馬に乗った参宮客が、ここで馬を返して一休みした(返馬)茶屋から名付けた) 道路を挟んだ「椎の木」はさわると祟りがあると伝えられている。 その先は景色が広がり何とも言えない開放感。相合橋を渡って農協駐車場で信号待ち休憩。 右斜めに続く旧道を行く。 |
■ 旧道・札の辻 ■約500m(12:15) 旧道入口に派手目な庚申堂、街道の両サイドには伊勢周辺で多く見られる「妻入り」の連子格子 が続く。「建物も大きく参宮客で儲けたな!」と卑しい勘繰りをする旅人。 やがて街道は外城田川(ときた)を渡り、小俣小学校を横にする。 時計・眼鏡の中川というお店の角が和歌山藩の高札場があった札の辻だ。 この角を左に曲がる |
■ 本陣跡〜宮川橋へ ■約1〜2km(12:45) 街道を右左に折れると鳥羽藩の本陣跡や 高札場跡がある。 宮川の手前、宮古橋袂の「参宮人見附」道標は旅人に元気を与えてくれる。 土手を乗り越え、そのまま突き進むと川辺には宮川の渡しが再現されていた。 ・・・13:00:伊勢を目の前にした旅人は、何かを惜しむように急にゆっくりとした歩きになっていた。・・・ (行程3時間・万歩計=20392) |
6.松阪〜斎宮へ 8.宮川〜伊勢へ |