43.宮宿~桑名宿へ(街道地図)
名古屋市熱田区→裁断橋→ほうろく地蔵→七里の渡し→熱田神宮(4km:1.5時間)

■ 宮宿について ■(2000年1月10日)晴れ
名古屋に着いた。新幹線で2時間の距離を気の遠くなる程歩いてきたようだ。 経過時間を比較することに特別意味は無いのだが、 時間を掛ける事はそれだけ多くの物を見ている事だった。 歩く視線は近いほど良く見える。 何故か最近は視線が先に伸び、1日20k歩くのは当たり前になってしまった。 スポーツ後の快感が先行しているようだ。 身も心も楽しむため最終日の今日はゆっくりと街道を歩く事にした。 ・・・・ 東海道で最大の宿場、宮宿とは熱田神宮の宮を略称して付けられた名である。 桑名への渡船場、佐屋・美濃への分岐点、熱田神宮の門前町として賑わっていた。 今では街道から離れた名古屋城辺りが街の中心となってる。

■ 市街地~宮宿入口 ■約1km
山崎橋を渡って前方の高速道路下、松田橋交差点の横断歩道橋を渡って 国道と合流する。やがて国道は陸橋となって上がり、街道は横の脇道(写真左)になる。踏切りで待たされ、名鉄のガード(写真中)をくぐると、 右側の整備された一角に宮宿の案内板があった、11:00、ここ辺りから宿場らしい史跡が残されているようだ。 歩道上に統一された茶色の短い柱が等間隔に建ち並び東海道を教えてくれる。

■ 姥堂・裁断橋 ■約1~200m
左ビルの玄関に復元裁断橋(写真左)がある。 (裁断橋=宮宿東の精進川に架かっていた橋、 秀吉の小田原攻めに従軍し18才で病死した 堀尾金助の母が供養のために壊れていた裁断橋を架け替えた。 橋の擬宝珠(写真中)には母が子を思う名文が刻まれ、道行く人に感銘を与えた) 裁断橋の袂にあった姥堂は(死者の衣類を剥ぐ鬼婆)同ビルの二階に移されている。 玄関右には1800年頃、宿場の女中が謡い始めたとされる都々逸発祥之地の碑(写真右)

■ 伝馬町~ほうろく地蔵 ■約4~500m
街道左の鈴ノ御前社(写真左)裏手には家康が幼少のころ織田家の人質 となっていた家康幽居の地があるらしい。 街道は(伝馬町商店街)(写真中)信号の無い国道で分断され、 大回りをしながら先へ進む。突き当たり正面にはほうろく地蔵(写真右) 右は佐屋街道へと続く道、左は七里の渡しへ至る東海道。 再び国道に寸断された東海道は横断歩道橋となった。 渡った所は 「鰻・ひつまぶし」で有名な蓬莱軒本店で行列が並んでいる。

■ 七里の渡し場跡 ■約4~500m
街道は宮の渡し公園で行止まり、東海道はここから桑名まで海上七里の道となる。 (七里の渡し場跡=宮から桑名に渡る船着場の跡で、海道距離が七里あった 事から七里の渡しと呼ばれた。所要時間は4時間。 渡し場内にある大きな鐘楼(写真左)は船出の時を告げる鐘。 脇の小さな熱田湊常夜燈(写真中)は夜間航行禁止のため燈火されていた) 大鐘楼の大きさは常夜燈と比較する(写真右)と解っていただけると思う。 桟橋にある船では桑名までの船旅は出来ない

■ 宿場の面影 ■約2~30m
公園の一角に宮の渡しの説明板がある。 通りを挟んだ家並みに宿場の面影を残す二軒の家屋があった。 (1.丹羽家住宅(写真中)=幕末の頃には「伊勢久」という脇本陣格の旅籠屋だった建物) (2.熱田荘(写真右)=明治29年建造の「魚半」という料亭、宮宿の景観を残す町家の様式を継承した貴重な建物) 東海道を自分の足でここまで歩いてきたのに東海道は海になってしまった。 これから何処を歩けば・・・

■ 熱田神宮 ■約1km
取りあえず、熱田神宮にお参りして考えよう。 (熱田神宮(熱田さん)は、伊勢神宮(お伊勢さん)に次ぐ由緒ある大社。 御神体は草薙剣、神域は約20万㎡と広く正門(南門)は宮の渡しに近く 門前町の賑わいは街道一と言われていた) 神宮は正月のえびす様?と成人式の着物姿で華やかに賑わっていた。
・・・12時半、名古屋の地下鉄構内階段で足を取られて転んでいる無様な男がいた・・ (行程1.5時間(計3.5時間)・2000.1/10(月)成人の日:万歩計=19409)

旅人:浮浪雲
42.鳴海宿~宮宿へ 44.桑名宿~四日市宿